赦しには力がある。
でも、生きているとどうしてこんなことが赦せようか・・なんでこんなことが私に起こるのか・・ひどい、不条理だと思うようなことがあることも事実である。いろいろな嘆き、叫びがある。まったく赦せるわけがない・・ということもある。
人の無理解や愛のない態度を受けて傷つくことだけでなく、人の弱さや醜さを見ることによって・・失望し・・つまずき・・祝福ある歩みや愛し合うこと、信じる心の力を失っていくこともある。どうせ人間なんてこんなものだ、人生とはこんなものだ・・みたいな・・
聖書の中に出てくるアベルという青年は、神様の前に正しい人で敬虔に生きる立派な人であった。しかし兄カインがそんな弟に嫉妬を燃やし、野原に誘いだして殺してしまう。しかもその後、神様に弟アベルはどこに行ったのだと問われた時、「知りません。私は自分の弟の番人でしょうか・・・」などと、後悔や反省すら見られない。
なんとひどい話であろうか・・こんなこと許せないと憤りを覚える。
アベルはなんの非もないのに無惨に大切な命を失ってしまった・・。
そして聖書にはその無惨さを「弟の血が、その土地から叫んでいる・・」と表現されている。
しかし聖書には「アベルの血よりも、優れたことを語るイエスキリストの血」のことが書いてある。
なにか許せないような罪を見た時にも・・人の弱さを見たときも・・、失望してしまうのではなく、キリストに望みをおくものでいたい。
アベルの血は、人の正しさ、゛訴えの血゛であり゛のろいの血゛でもある。
でも、イエスキリストの血はそれに勝る゛赦しの血゛゛解放の血゛゛神の力の血゛である。それは近いようで、ズレがあり、前者は自分を縛り、人を祝福しない。イエスキリストは私たちを愛するがゆえに、人々に裏切られ嘲られ何の罪もないのに罪びとのように十字架で血を流して私たちへの愛を成し遂げて下さった。キリストの血潮の力のみが呪いを祝福に変え、嘆きを踊りに変える。
あなたの心に希望を与えるのである・・・希望の道を歩こう・・。
『さらに新しい契約の仲介者イエス、それにアベルの血よりも優れたことを語る注ぎかけの血・・』ヘブル12章24節
『光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかった』ヨハネ1章5節
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実は、赦しにはとめどもない大きな力が隠されている。
私も赦されることによって人生が変わった。そう、もちろんイエス・キリストを受け入れて、罪の赦しを知っただけでなく体験して・・・
赦されたことによって・・、こんな私が赦されていいことを知ってから、父が変わり、家族が変わった、自分を受け入れることができるようになった。
・・大きな力があった。
これは赦される力だ。
でも、自分が赦されることも見えない大きな神様の祝福が流れる力だけど、相手を赦すのも相手のためだけでなく、自分が縛られることから守り、自由と神様の祝福を受け続けていく大きな力、キーポイントなのである。
だから、赦された後は赦していこう・・。
赦さないでいるうちに・・「あんなヤツ!」って思っているうちに、あるいは裁いて見下げているうちに、とても孤独になっていく自分に気が付いたことないかな・・
ある人が今まで赦せなかった人をある時、赦したんだって。それと同時にいろいろなことが起こって状況が変わっていったんだ。神様の祝福が流れ始めたんだよ。これは、たまたまでなく自然の神様の法則なんだ。
だから自分を愛して・・・、日々赦していこう。
赦しには力がある。イエスの御名によって・・・
ぼくとあなた・・ん!なんか違う・・
でもまあ肩組んで、仲良くやろう~
『お互いに親切になり、心の優しい人となり、
神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。』 聖書
わかってくれる人がいない・・・、そんな状況、意外に誰にもあるかもしれない。
真実に話したら、だれでもわかってくれるもの・・・でもない・・・、ここに難しさがある。
同じ体験した人、または苦しみを乗り越えた人、つらい体験をしたけれど前向きに乗り越えた人、そんな人が近くにいれば、わかってくれるかもしれない・・。
でも、いつもいつもそのような人が身近にいるとは限らない、この人ならわかってくれるだろうと思って相談しても、言わなければ良かったと思う時もある。
人間は、体験したことしかわかりずらいし、体験していても心がトゲトゲしてたら聞く耳を持てないし、まず心が健康でないと人のことを考えられないし、正しくとらえられないものである。
言葉で伝える、言葉で逆に伝わる時もある。その表現が難しくて、正しく伝わらない時もある。
でもね・・・上を向いてみようよ。あなたを愛して、すべてを知っている方がいるよ。そして、その方は、決してあなたを見捨てない。
一生懸命言い訳をしなくても、あなたのことをすべて・・もう御存知な方がいるよ。悲しい思いをしていることも、叫びたい思いのある時も、そうそう自分にもちょっと悪いところがあることも・・、その方のところにいって素直にお話したらいいよ。きっと心の奥まで温かい慰めに満たされるから・・。
その方に慰められ癒された時、不思議な力が与えられるんだ。
そして、やっぱり前に向かって歩き出そう・・と思えるんだ。
『わたしは主である。わたしのほかに神はいない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。』聖書
ついつい、ふと考えると人は誰かと誰かを比べている。でも、ほんとうのところはみんなそれぞれ違う目的をもってつくられたのだから・・比べるのがおかしい。
そうだよ、つねにそこに戻ろう・・
魚が鳥になりたいと思って海から出たら生きていけないよ、鳥が魚のように海を泳ぎたいと思っても魚じゃないから無理なんだ。
そんな無理なことをしてないかな・・せっかく与えられた一度きりの人生、自分らしく生きていこうよ。背伸びもやめて、見栄も張らずに・・創り主のところにいくとそのままでいいことに自信がつく。そのままだからこそ、輝きだすんだ。
飛行機から地上を見たことある・・?一人一人みんな点に見えたりもする。神様の目には、みんなそう変わらない。だから人の言葉や態度で傷つくのをやめよう、そんなの本当は大したことないんだ。あなたもあなたがとても大きく見える人も、上から見たらみんな平等だ。だから、自分らしく自分の人生を歩むのがいいよ。それが本当の自分であるかぎり・・・
もちろん植物が太陽の光を浴びて成長して実を実らせるように、毎日毎日休まず成長させていただこう、それは解放されていくこと、癒されていくことで、とても幸せなことだから。ミルクを飲んで健やかに育つ赤ちゃんのように・・。
人と比べなくていいんだよ、自分の歩みの中で一歩ずつ歩んでいけばいいんだ。あなたが何者かを知っている唯一の方をしっかり見て歩み始める、自由と解放の道・・永遠の命への道を求めてみようよ。
私は道であり、真理であり、命である・・・・イエス・キリスト
トゥルルルル-、ラジオのチューナーのつまみを回しながら、クリアな声が聞こえるまでダイヤルを合わせながら回す。昔よくそんなふうにして母とラジオを聞いた。今はほどんど聞くことはないが・・・懐かしい。
そうやってチューナーを合わせ、天のお父さんの声に耳をすましてみる・・。一度合わせたら、あとはクリアな声につながって生活する。
人と会う時や、何か心を乱すことが起こった時や、難しいことを言われる時、人間関係の中など、チューナーを合わせなおして問題に左右されずに神様の声を聴く。
子供の頃・・・
となりの家のガラスを割ってしまったり、何か問題が起きた時、お父さんに言ったら解決してくれた。一緒に菓子折りを持って謝ってくれたのを覚えている。私はお父さんが謝る後ろにくっついていくだけで・・安心だった。お父さんは全てを解決してくれたから、全てをお父さんにまかせて・・。
お父さんが一緒なら困ることはなかった。
そのように、天のお父さんの声に耳を傾けて歩む時、不思議な解決や、不思議な平安、また不思議な勝利があるのだ。
子供がなんでも親に頼るように・・、お父さんはいつでも正しく、また愛情をもって導いてくれる。
小さい時にお父さんがいない人、またその逆を体験をした人もいるかもしれない・・・でも、天の神様はあなたの全てを知って命がけで愛して下さる本当のお父さんだよ。
天のお父さんとつながった時、安心と安らぎの中で、確かな道に導かれることを知る。どんな難しい問題が起ころうとも、誤解のある人間関係の中にあろうとも・・自分で最善の判断をしなければと必死で思い巡らし、大きな荷物を背負う必要はない。
それより、とても単純な歩みをしよう。
「神を信頼し、神様の言うことに幼子のようについていく」・・・ただ、それだけだ。
どんな難問であろうとも、答えは単純・・1回1回聴けばいいのだ。
ラジオのチューナーを合わせて、神様の声に耳を澄ましてみよう・・・
『私の羊は私の声を聞き分けます。また、私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます。』聖書(ヨハネ10:27)
『主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません。』
春の美しさを感じるついこの頃である。
社会では緊急事態宣言がでる中・・自然界の美しいこと、花々の色鮮やかなこと・・今年は特に自然界が逆に元気なのではないか・・と感じる。
散歩をしているワンちゃんを見ると、むかし共に暮らしていた愛犬を思い出す。
長野の実家に愛犬をつれて旅をしたことがある・・・
半年前にもらった捨て犬の”ちびパグ”だ。彼は、捨てられて町をさまよって自傷痕があり発見当時はガリガリにやせていたそうだ。彼にとって初めての車の旅のようでなかなか慣れないようだった。
現地について、ベランダに小さいハウスや敷物を並べて居場所を作った。そこは、ふだんの数倍のスペースであり、涼風がはいってきて目の前は畑などの緑が広がり、最高のスペースだった。
その彼が、夜中にくるくる回りひとりで何度も遠吠えをするのだ。”おちび”で”タヌキのぬいぐるみ”のような彼がこんな狼みたいな声をだすのか・・とカーテンのすき間からのぞいてみた。すると、ちびでタヌキの顔をしたまま、体はりりしく天を向いてふんばり・・「ウォーン、ウォウォーン」とその声は夜空にひびいた。
捨てられて発見してくれた人のお世話になり、一時的に預かってくれた方のお世話になり、何度か転々としたから、また捨てられると思ったのかもしれない。調べると、犬の遠吠えは、孤独な時だれかを呼び求める声ともいう。
飢え渇いた時の心に似ている。人は誰もが一人で生まれ、親と暮らし、別れて結婚し、子供ができ、また別れ・・最後は1人でこの人生をしめくくる。どのような経緯をたどったとしても、誰にもいえることは、孤独があるということだ。
だから羊飼いなる優しい、うるわしい神様と共にあること、いつもどんな時も共にいて下さる方がいること。・・・この喜びに今日もあらためて感動する。
そして、心が飢え渇いた時は、満たしてくださる方にむかって「ウォーン、ウォウォーン」と叫ぼう。天に向かって叫んだ時、人知では計り知れない神様の恵みと愛で心は満たされる・・。
彼・パグの名は”サンオク”という。少し変わった名前だが、呼べば必ず振り返る。人をいやし愛きょうをふりまき、盗み食いが得意・・
『私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわきでます。』 聖書より
主は眠らないお方・・ 詩篇121:1~8
イエス様は死からよみがえられ、人々の罪を清められた後、雲に覆われつつ天に上げられた。そして大いなる方の玉座の右の座にお着きになられた。
その目的は、イエスはまことの聖所、また幕屋でお仕えになることと、私たちのために執り成すためであった。
『この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、ご自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことがおできになります。』ヘブル7章25節
5節『主はあなたを見守る方、あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。』・・主の真実は永遠である・・
♦ 2020年の召天日は5月21日(木)です。希望を抱きつつ・・
わたしを愛しているか・・ ヨハネ21:15~25
イエス様は食事を済まされると、ペテロと会話をされた。この食事は和解を意味している。昇天前に弟子たちの”心の傷の回復”に手を差し伸べられたのである。
そして、イエス様はペテロの心の傷に目をかけられ、3度も「私を愛しているか?」と問うた・・とても痛々しく切ないシーンだ。
18章18節での炭火をたく寒い中、ペテロが「イエスという人は誰だか知らない」と3度も否定したからである。その回数分イエス様は同じ炭火をたく中(時間を戻すかのように)、ペテロに”愛の告白”へと導かれた。イエス様だけが本当の癒し、神との100%の和解を成し遂げて下さるお方である。
栄光在主
さあ来て朝の食事をしなさい。 ヨハネ21:1~14
弟子たちの前によみがえった姿を現されたことは、これまでに2度もあった。
それにもかかわらず弟子たちは「私は漁に行く」と・・・いわゆる”以前の生活(古い自分)”に戻っていったのである。
復活したイエスの姿を2度も目撃しながらも弟子たちは相変わらず”弱々しかった”。
岸に立つイエス、それはイエスの悲しい姿を現していた。大漁を捕り弟子たちが陸に上がった時、すでに魚とパンを焼く給仕するイエス様の姿があった。
必要の全ては上から来る、永遠の愛も上から来る。それはあり余るほどのものである。
・・・「子たちよ、何か食べる物はあるか。」
下のマークのはイクソスとあり、初期のクリスチャンが隠れシンボルとして用いたマークである。